Priscilla ChanとMark Zuckerbergが夫婦そろってポッドキャスト「Latent Space」に登場した。
ソーシャルメディアの未来やMetaバースの行く末について語るためではない。彼らがこの10年間、静かに、しかし莫大な資金を投じて進めてきたChan Zuckerberg Initiative(CZI)の核心プロジェクト、「Biohub」について語るためだ。
「今世紀末までに、すべての病気を治療・予防・管理できるようにする」
あまりに壮大で、あるいは荒唐無稽とも取れるこのミッションを、彼らは真顔で、そしてエンジニアリングの文脈で語っている。これは単なる慈善事業のバラマキではない。AIが自然言語処理やソフトウェア開発を飲み込んだのと同様に、生物学(Biology)を「ハック可能なシステム」として再定義しようとする、極めて野心的なAI x Biologyの実験場なのである。
「パーツリスト」から「動的なシステム」へ
生物学の歴史を振り返ると、Human Genome Projectが我々にDNAという「パーツリスト」を与え、DeepMindのAlphaFoldが数億ものタンパク質の「3D構造」を明らかにした。これらは偉大なマイルストーンだが、静的なデータに過ぎない。
CZIのBiohubが挑んでいるのは、その次のフェーズだ。すなわち、これらのパーツが細胞という複雑系の中で、そして人体というさらに巨大なシステムの中で、どのように相互作用し、動的に振る舞うのかを解明することである。
彼らの戦略は、従来の「仮説ドリブン」なアカデミアの研究スタイルとは一線を画す。年間10億ドル規模の資金を投じ、AI研究者と生物学者を物理的に同じ場所に閉じ込め(co-location)、以下のような長期的かつ基礎的なベットを行っている。
Virtual Cell(仮想細胞)の構築: Human Cell Atlasへの貢献を通じ、人体の数兆個の細胞データを収集。これを基に、AIベースの細胞シミュレーターを構築する。「In vivo(生体内)」や「In vitro(試験管内)」の実験は金も時間もかかるが、「In silico(コンピュータ内)」であれば、桁違いの速さと安さで予測モデリングが可能になる。
物理世界のデジタライズ: シミュレーションには高品質なデータが不可欠だ。そのために、彼らは既存のツールに頼らず、CryoET(クライオ電子線トモグラフィー)顕微鏡のようなハードウェア自体を新規開発し、原子レベルでの観察を可能にしている。
計算資源の暴力的な投入: 生物学の研究機関としては異例の1,000台、そして将来的には10,000台規模のGPUクラスターを構築。さらに、ESM3モデルの開発チームであるEvolutionary Scaleを買収し、そのAI能力をBiohubに統合した。これはもはや「研究所」というより「テック企業」のインフラである。
Virtual Immune System:デジタルツインの究極系
今回のインタビューでPriscilla Chanが特に熱を込めて語ったのが、「Virtual Immune System(仮想免疫システム)」の構想だ。
免疫システムは、身体のメンテナンスを行い、外部の敵を撃退し、時には暴走して自己免疫疾患を引き起こす、人体における「セキュリティソフト」兼「修復ドローン」のような存在だ。Priscillaはこれを「特権的なシステム」と表現する。全身を巡り、脳や膵臓、心臓といった重要臓器にアクセスできるからだ。
もし、この複雑怪奇な免疫システムの挙動をAIで完全にモデリングできればどうなるか。
それは、個人の遺伝子情報や健康状態に基づいた「デジタルツイン」上で、病気の発症前に介入シミュレーションを行えることを意味する。例えば、CAR T-cell療法のように免疫細胞をリプログラミングして癌を攻撃させたり、スタンフォード大学の研究で見られるような、自己免疫反応を停止させるハイブリッド免疫システムの構築が可能になるかもしれない。これは、対症療法(Reactive)から予防医療(Proactive)への完全なパラダイムシフトである。
AIモデルの乱れ打ち:VariantFormerからscLDMまで
Biohubのアプローチが「絵に描いた餅」でないことは、彼らが次々とリリースしている具体的なAIモデルやツール群からも見て取れる。2024年から2025年にかけての彼らの動きは、まさにテック企業のリリースサイクルのようだ。
- VariantFormer:個人の遺伝的変異が、組織固有の遺伝子活動にどう翻訳されるかを予測するモデル。
- CryoLens:CryoETデータのための大規模モデルで、ラベルなしで構造的類似性を分析する。
- scLDM:前例のない忠実度で、リアルな単一細胞データを生成する生成AIモデル。
さらに、MetaのSAM2のようなセグメンテーションモデルを活用し、CELLxGENE Annotateのようなオープンソースツールエコシステムを整備することで、世界中の研究者が「同じ言語(データ形式)」でコラボレーションできる土壌を作っている。
従来の生物学者が「マウスで実験して論文を書く」のに数年かかっていたところを、AIエージェントが研究戦略を立案し、仮想実験を行い、有望な候補だけをWet Lab(実験室)で検証する。Deep ResearchのようなAIエージェントがデスクワークを変えつつあるように、Biohubは「Virtual Lab」によって科学的発見のプロセスそのものをエンジニアリングしようとしているのだ。
Precision Medicineと「医師」の再定義
技術的な興奮の一方で、臨床現場(Clinical Impact)への落とし込みには依然として大きなギャップがある。しかし、CZIの狙いは明確だ。「発見の科学」から「エンジニアリングとしての医療」への移行である。
特に興味深いのは、「意義不明の変異(Variants of Unknown Significance)」へのアプローチだ。臨床医が遺伝子検査の結果を見ても「異常はあるが、これが病気の原因かわからない」と匙を投げるケースは多い。AIがこれらの変異の影響を細胞レベルでシミュレートできれば、ブラックボックスだった遺伝子変異に「意味」を与えることができる。
これは、うつ病のような複雑な疾患に対して、現在の「とりあえず薬を試して様子を見る(そして数ヶ月を無駄にする)」という経験則的なアプローチを終わらせる可能性を秘めている。個人の生物学的プロファイルに合わせたPrecision Medicine(精密医療)の実現だ。
この未来において、医師の役割はどうなるのか。Priscillaは、パターン認識やデータ分析(皮膚科や眼科領域ですでにAIが凌駕しつつある領域)はAIに譲り、医師は「コンパッション(共感)」や「複雑な情報の翻訳者」としての役割に回帰すると語る。AIが診断のロジックを担い、人間がその意味を患者と共に背負う。ありふれた未来予測にも聞こえるが、現場の医師でもある彼女の言葉には重みがある。
100年の計、あるいは加速する特異点
「今世紀末まで」というタイムラインは、シリコンバレーの時間感覚からすれば永遠のようにも思える。しかし、生物学の複雑さと、FDAの承認プロセスや倫理的なハードル(HIPAA、GDPR、アルゴリズムのバイアス問題など)を考慮すれば、それでも野心的すぎる目標かもしれない。
しかし、Mark Zuckerbergが指摘するように、AIの進化速度が生物学の解明速度を律速するようになれば、そのタイムラインは劇的に短縮される可能性がある。
CZI Biohubが示しているのは、テック業界の富と方法論(オープンソース、計算資源の集中投下、AIファースト)を、最もハードな科学分野に適用したときに何が起きるかという壮大な実験だ。たとえ「全疾患の治療」が今世紀中に達成できなくとも、彼らが構築しつつある「Virtual Cell」や膨大なデータセットは、次世代の科学者にとってのGoogle検索のような、不可欠なインフラとなるだろう。
生物学は今、記述的な学問から、予測可能でプログラム可能な工学へと変貌を遂げようとしている。その最前線には、白衣を着た生物学者と、GPUクラスタを見つめるAIエンジニアが肩を並べて座っているのだ。