TSMC海外展開の真実:モリス・チャンが予見した「徒労」と地政学的必然の狭間で

Morris Changが「徒労」と評したTSMCの海外展開は、地政学的な必然と高コスト体質の狭間で、経済合理性を超えた成功を目指す壮大な挑戦である。
Author

Junichiro Iwasawa

Published

December 1, 2025

世界の半導体産業におけるTSMCの支配力は、もはや説明不要の領域に達している。

かつてドナルド・トランプ氏はC.C. Wei CEOを指して「世界で最も重要なビジネスマンの一人」と呼んだが、その認識すら生ぬるいかもしれない。TSMCは単なる「重要な企業」ではなく、世界経済の生命線を握る唯一無二の存在だからだ。その重要性を痛感しているからこそ、世界各国の政府はこぞってTSMCを自国に誘致しようと躍起になっている。

しかし、米国アリゾナ、日本、そしてドイツで稼働、あるいは建設が進むこれらの海外Fabは、果たして経済合理性に基づいた「成功」と言えるのだろうか?

TSMCの創業者であり、半導体業界の生ける伝説であるMorris Chang(モリス・チャン)博士はかつて、米国内での製造拡大を「Exercise in futility(無益な徒労)」と切り捨てた。本稿では、SemiAnalysisのレポートをもとに、TSMCの強さの源泉である台湾エコシステム、過去の失敗事例、そして地政学的リスクと経済的現実の狭間で揺れる海外展開の深層を分析する。

「台湾のコア」:複製不可能なエコシステム

TSMCの圧倒的な強さは、その徹底した「台湾集中」にある。グローバルに従業員83,000人以上を抱えながら、その90%近くは台湾人であり、製造キャパシティの大部分、特に最先端ノード(Advanced Node)のほぼ全てが台湾という小さな島に集中している。

この集中構造こそが、TSMCの競争力の源泉だ。Cliff Hou副社長が語る「ワンアワー・エコシステム(One-hour semiconductor ecosystem)」という概念がそれを象徴している。新竹科学園区(Hsinchu Science Park)を中心とした台湾の拠点では、サプライヤー、パートナー、そしてTSMCのFabがすべて車で1時間圏内に位置している。何か問題が起きれば、サプライヤーのエンジニアが即座に駆けつけ、解決にあたることができるのだ。

さらに、台湾政府と連携した強力なタレントパイプラインの存在も見逃せない。TSMCは17の大学と提携し、Process Design Kit(PDK)などのリソースを提供して、将来のエンジニアを育成している。この「人、モノ、知恵」の物理的な近接性と密度の高さこそが、他国がどれだけ補助金を積んでも容易に模倣できないTSMCの参入障壁となっている。

加えて、TSMCのコーポレートガバナンスは極めて健全だ。Intelの取締役会が半導体素人で占められていた時期があったのに対し、TSMCは創業以来、業界の専門家と独立取締役を中心とした体制を敷いている。このガバナンスの質が、数十年にわたる成長とイノベーションを支えてきた。

WaferTechの亡霊:過去の「悪夢」は繰り返されるか

TSMCにとって、米国進出は決して新しい挑戦ではない。1996年、ワシントン州キャマスに設立された「WaferTech」という苦い前例があるからだ。

当時、クライアントの要望と自社の成長に押されて設立されたこのジョイントベンチャーは、Morris Chang自身が「Nightmare fulfilled(悪夢の成就)」と表現するほどの失敗に終わった。当初の見込みをはるかに超えるコスト超過、オペレーションの混乱、そして台湾本社とのコミュニケーション不全。文化的な摩擦も含め、当時の教訓は「海外でのFab運営は、台湾と同じようにはいかない」という強烈なトラウマを社内に残した。

このWaferTechの経験があるからこそ、Chang氏はアリゾナ・プロジェクトに対して懐疑的な姿勢を隠さなかったのだ。彼の「高コストで競争力のないものになるだろう」という予言は、単なる悲観論ではなく、実体験に基づいた冷徹な分析であったと言える。

アリゾナの野望と現実:砂漠に「台湾」は作れるか

現在進行系のアリゾナFabプロジェクトは、WaferTechとは比較にならないほど野心的なものだ。しかし、そこには依然として「台湾のエコシステムをどう再現するか」という巨大な壁が立ちはだかっている。

SemiAnalysisのレポートによれば、アリゾナにおけるサプライチェーンのローカリゼーションは道半ばである。象徴的なのが、Linde社によるガス供給施設のトラブルだ。台湾では自社システムで完結していたものが、アリゾナでは外部委託となり、不純物の混入による大規模な歩留まり低下(Scrap event)を引き起こしたとされている。

広大なアメリカ大陸において、台湾のような「ワンアワー・エコシステム」を構築するのは地理的に不可能に近い。また、米国政府のCHIPS Actは国内サプライチェーンの強化を謳っているものの、TSMCが必要とするレベルの垂直統合型エコシステムを完成させるには至っていないのが現実だ。結局のところ、多くの重要部材はいまだにアジアからの輸送に頼らざるを得ない。

初期のレポートでは、アリゾナFabの歩留まり(Yield)は台湾の同等Fabを上回るという明るいニュースも出ている。しかし、これは「最適化済みのプロセス」と「比較的シンプルな製品ミックス(AppleのモバイルSoCなど)」でスタートしているためであり、額面通りに受け取るのは危険だ。本当の勝負は、より複雑な製品や最先端プロセスの量産が本格化した時に訪れるだろう。

コストと地政学:誰のためのFabなのか

では、なぜこれほどの困難とコストを抱えてまで海外展開を行うのか。TSMCの公式見解は「顧客の需要(Customer Demand)」だが、その背後にある真のドライバーが「地政学的要請(Geopolitical Imperative)」であることは明白だ。

世界のGDPの無視できない割合が、台湾という一箇所に依存しているリスク。これを分散させたい西側諸国政府の思惑と、TSMCの「シリコンシールド」としての立場を維持しつつも生存戦略を図るバランス感覚が、この海外展開を突き動かしている。

  • アリゾナ(米国): 最先端ノード(Advanced Node)への投資。コストは度外視に近い戦略的拠点。
  • 熊本(日本・JASM) & ドレスデン(ドイツ・ESMC): レガシーノード(Legacy/Specialty Node)。自動車や産業機器向けの特定用途に特化しており、比較的現実的な着地点。

興味深いのは、UAE(アラブ首長国連邦)へのFab建設の噂が、米国の懸念(主権管理と技術流出リスク)によって立ち消えになったという報道だ。これは、TSMCの海外展開が純粋なビジネスではなく、大国のパワーゲームの一部であることを如実に物語っている。

経済的合理性を超えた「成功」を得られるか

「海外Fabは経済的に成功するか?」という問いに対する答えは、純粋なCost Per Wafer(ウェハー当たりのコスト)で見れば「No」に近いだろう。台湾で製造するよりもコストが高くつくことは、Morris Changの指摘通り避けられない事実だ。

しかし、TSMCの海外展開を単なる損益計算書だけで評価するのは近視眼的かもしれない。これは、地政学的な断絶リスクに対する「保険料」であり、TSMCがグローバル企業として生き残るための「入場料」でもあるからだ。

WaferTechの悪夢を乗り越え、アリゾナの砂漠に最先端のエコシステムを根付かせることができるか。あるいは、高コスト構造に苦しむ「高価な徒労」となるか。その成否は、TSMCの技術力だけでなく、日米欧の政府がいかに本気でサプライチェーンの再構築を支援し続けられるかにかかっている。

いずれにせよ、我々はTSMCが敷いたレールの上を走るしかない。それが、現代のシリコン・エコノミーの現実なのだから。