Vercel Ship AIイベントが終了し、CTOのMalte Ubl氏がLatent Spaceのポッドキャストでその裏側を語った。
AI業界が「Agent」というバズワードに酔いしれ、デモ映えするだけの脆いプロトタイプを量産している間に、Vercelは着々と「その次」のインフラを整備していたようだ。Malte氏の言葉の端々から感じられるのは、シリコンバレーのハイプに対する冷徹なまでの実利主義と、開発者の「手触り」に対する執拗なこだわりである。
彼らが今回提示したのは、魔法のようなAGIではない。むしろ、AIエンジニアリングを泥臭い「試行錯誤」から、堅牢な「システム構築」へと昇華させるための現実的な解である。本稿では、Ship AIでの発表とMalte氏の対話から見えてきた、Vercelの戦略的意図を紐解いていく。
Workflow Development Kit (WDK):サーバーレスの限界突破
今回のアナウンスの中で、地味ながら最も破壊的なのがWorkflow Development Kit (WDK)である。
これまでサーバーレスアーキテクチャ、特にNext.jsのような環境で、数分、あるいは数日にわたる処理を記述することはタブーとされてきた。AWS Lambdaのタイムアウトにおびえ、ステート管理のためにデータベースとキューを自前で実装し、cronジョブでポーリングする――そんな「分散システムの苦行」を強いられてきたのが現実だ。
WDKはこの苦行を過去のものにする。コード上で await するだけで、関数が一時停止し、数日後にWebフックを受け取ってそこから再開する。「Durable Execution(耐久性のある実行)」と呼ばれるこの概念は、Temporalなどが切り開いてきた領域だが、Vercelはこれをフレームワークネイティブな体験として落とし込んできた。
Malte氏が強調するのは「Idiomatic(慣用的)」であることだ。特別なインフラの知識がなくても、TypeScriptを書く感覚で、人間が承認ボタンを押すまで待機するエージェントや、無限にリトライを繰り返す堅牢なワークフローが記述できる。これは単なる機能追加ではない。「サーバーレス関数は短命である」というメンタルモデルの破壊であり、AIエージェントのような長時間実行プロセスを、フロントエンドエンジニアの手に取り戻すための布石である。
AI SDKの「謙虚な」勝利
AIアプリケーション開発の現場において、VercelのAI SDKがデファクトスタンダードの地位を確立しつつある理由は、その「謙虚さ(Humble)」にあるとMalte氏は語る。
初期のLangChainなどが、早々に「エージェントとはこういうものだ」という抽象化を強制し、独自のDSL(ドメイン特化言語)の中に開発者を閉じ込めようとしたのに対し、Vercelは逆のアプローチを取った。彼らは「AIアプリの正解なんてまだ誰も知らない」という前提に立ち、あえて低レイヤーのAPIを提供することに徹したのだ。
jQueryが登場する前のJavaScript界隈がそうであったように、今はまだプリミティブなツールを組み合わせ、パターンを発見していく段階にある。V6ベータに至ってようやく「Agent」という抽象化を導入したのも、コミュニティの中で成功パターンが固まってきたからに過ぎない。
「Dogfooding(自社製品を自ら使う)」の原則に従い、社内でv0などのプロダクトを開発する中で得た知見のみをSDKに反映させる。この泥臭いフィードバックループこそが、象牙の塔で設計された他社フレームワークとの決定的な差を生んでいる。
実用段階に入った「社内エージェント」とDevOps
「エージェントは役に立つのか?」という問いに対し、Vercelは自社のオペレーションを晒すことで回答している。特に興味深いのが、今回発表されたDevOps Agentだ。
SREやDevOpsの現場において、アラートの設定は常に「狼少年(False Positive)」との戦いである。感度を上げれば夜中に叩き起こされ、下げれば障害を見逃す。Vercelはこのジレンマを、エージェントに一次対応させることで解決しようとしている。
異常検知がトリガーされると、エージェントがObservabilityデータをクエリし、ログを読み解き、「これは本当に人間を叩き起こすべき事案か?」を判断する。エージェントであれば、数分かけてログを精査しても文句は言わない。これは、AIによる完全自動化という夢物語ではなく、人間の認知負荷を下げるための極めて現実的なユースケースである。
さらに、彼らは「Lead Qualification(見込み客の選定)」や「Abuse Analysis(不正利用の分析)」といった社内エージェントの一部をオープンソース化している。これもまた、「Agent on Every Desk」プログラムの一環として、顧客企業が最初の一歩を踏み出すための呼び水とする戦略だ。
Pythonへの「降伏」と全方位外交
かつて「Always Bet on JS」を掲げていたVercelが、ここに来てPythonへの本格投資を加速させている点は見逃せない。
FlaskやFastAPIのゼロコンフィグデプロイ、そしてPython SDKの提供。これは、AIエンジニアリングの実権が、JavaScriptエコシステムだけで完結しないことへの現実的な適応である。推論はPythonで行い、UIとオーケストレーションはTypeScriptで行う。このハイブリッドな構成が標準化する中で、Vercelは「Pythonも動くNext.jsのホスティング先」から、「あらゆるランタイムを包摂するアプリケーションプラットフォーム」へと脱皮を図っている。
Malte氏は「技術的にはRubyやPHPも可能だが、最高のエクスペリエンスを提供できるまでやらない」と語るが、Python対応を急いだ背景には、AIワークロードを取りこぼしたくないという強い危機感と野心が見え隠れする。
「無能」を前提としたセキュリティ設計
最後に、Malte氏が触れた「開発者もAIも無能であると仮定する」セキュリティ哲学は示唆に富んでいる。
AIが生成したコード(Vibe Coding)がそのまま本番環境にデプロイされる時代において、開発者の善意やスキルに依存したセキュリティ対策はもはや機能しない。OAuthのトークン管理やデータアクセス制御を、アプリケーションロジックから切り離し、インフラレベルで強制する。
「誰が書いても(あるいはAIが書いても)、デフォルトでセキュアであること」。これがVercelが目指す次世代のフレームワークの姿だ。
総じて、今回のVercelの発表は、AIブームに便乗した派手な花火ではない。むしろ、AIが当たり前になった世界で必要となる「地味で退屈だが、絶対に不可欠な配管工事」を淡々と進めている印象を受ける。
ハイプサイクルの波が引いた後に残るのは、このような実利主義的なインフラの上に築かれた城だけなのかもしれない。